造酒業から分家して薬の上野屋創業
第三代将軍・徳川家光の時代、上州藤岡から信州上田へやってきた齋藤曾右衛門(号=是閑/ぜかん)が、海野町で造酒業を営みました。二代目曾右衛門(宅延/いえのぶ)になると、さらに茶、絹、油、綿などを扱うようになりました。その二代目曾右衛門の子、初代佐五兵衛(陳易/のぶやす・号=如始/じょし1694~1767)が分家して商売を始めました。当初、居住した常田村から海野町へ移転した時の記録から、享保11年(1726)が薬の上野屋創業の年となります。場所は現在地と異なり、海野町の東端の北側角でした。
江戸時代
延享3年(1746)には菩提寺の宗吽寺へ沈香、金箔、龍脳、白砂糖、胡麻油、上木綿壱反等々を納品しており、様々な商品を取り扱っていたことがわかります。二代目佐五兵衛(延章/のぶあき1732~1793)の一年間の服装を記録した『歳行録』なども残っています。
文政10年(1827)、三代目佐五兵衛(善友/~1818)、四代目佐五兵衛(如松/じょしょう1810~1859)の頃に発行された諸国道中商人鑑中仙道善光寺之部には和漢薬種所として紹介され、『家伝ふり出しくさの薬』と『奪命丹』の看板が載っています。『くさの薬』は皮膚病の煎じ薬で遠方まで販売されていました。嘉永元年(1848)頃には松代藩特産物の甘草、杏仁を大阪など全国へ売っていた記録があります。また嘉永5年(1852)からは菅平で当時の有力商人と共同で人参、甘草、芍薬、大黄等薬草栽培を試みました。
明治時代〜大正時代
明治2年(1869)、五代目佐五兵衛(如清/じょせい1841~1889)の頃に大規模な農民一揆が起こり海野町は全焼し、この一揆の前後で海野町の住民も大きく入れ替わりました。この時、現在の場所に移転しました。なお現存する蔵は明治44年(1911)建造です。
明治28年(1895)、六代目佐五兵衛(延武/のぶたけ1874~1926)の頃には信越線が全通し、その後電話も開通し自転車を使えるようになり配達なども便利になりました。昭和3年(1928)には東京薬学専門学校を卒業して薬剤師になった七代目佐五兵衛(新二/しんじ1905~1993)が『合資会社上野屋薬舗』を設立、看板は『上野屋薬局』に変わりました。ただ厳しい不況の時期が続き、やがて日中戦争から第二次世界大戦に突入した頃には物資がなくなり、上田化工という防毒マスク製造会社に製品検査のため通った時期もありました。
昭和時代
戦後、海野町は昭和32年(1957)に『ほていやデパート』が店舗を拡張するなど賑いを取り戻しました。昭和44年(1969)には海野町にビルを新築し、1階を薬局店舗、2階および3階を卸売部門の事務所・倉庫としました(現・コウズケヤビル)。昭和47年(1972)には八代目・諄一(じゅんいち1938~)が株式会社コウズケヤに改組し、昭和54年(1975)には海野町に子供服専門店『ちろりん村』を開店(後に移転、平成10年に閉店)、昭和55年(1976)には常田に『コウズケヤ薬局トキダ』(現・コウズケヤ薬局常田)を開店、さらに昭和63年(1988)には蒼久保に『コウズケヤ薬局豊里』を開店しました。一方、医薬品卸業界では大手による再編が進み、昭和51年(1976)に東邦薬品株式会社に卸売部門を譲渡しました。
平成時代
現在は地域密着かかりつけ薬局チェーンとして事業を展開しています。平成10年(1998)、平成12年(2000)にはスーパー『やおふく』のテナントとしてそれぞれ『コウズケヤ薬局古里』『コウズケヤ薬局東御』を開店しました。夜間や休日でもお客様に対応できるように薬局専用入口を設けています。また平成25年(2013)には『ファミリーマート上田長瀬店』に併設して『コウズケヤ薬局丸子』を開店しました。同年に本社機能を残して『コウズケヤ薬局海野町』を閉店、現在は5店舗となっています。